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十歳のきみへ―九十五歳のわたしから

十歳のきみへ―九十五歳のわたしから ★★★★★


2006年出版。
95年の含蓄のある言葉。
10歳を対象にしているため漢字も考慮されている。
小学校高学年から中学生に、ぜひ読んでもらいたい。

p.33
「いのちに、齢を加えるのではなく、齢に、いのちを注ぐようにしなさい」

時間というものは、止まることなくつねに流れています。けれでも時間というのは、ただのいれものにすぎません。そこにきみがなにをつめこむかで、時間の中身、つまり時間の質が決まります。きみがきみらしく、いきいきと過ごせば、その時間はまるできみにいのちをふきこまれたように生きてくるのです
時間を生かすということは、うらを返せば、死んでいる時間というものもあるということでしょうね。いのちをふきこまれないかぎり、時間は、またその積み重ねである年齢は、死んでいるも同然だということです。

p.47
ほかの人のために自分の時間をつかうということは、自分の時間がうばわれて、損をすることではないのです。それどころか、ほかのことでは味わえない特別な喜びで心がいっぱいに満たされるのです。こんなに大きなお返しをもらえることなんて、めったにありません。

p.150
平和が、ここにはあって、あそこにはないとしたら、それは「平和」ではないのです。

視点が広い。

p.159
さっきもお話ししたように「知る」という行為は想像力や思いやる力を同時にはたらかせながら行うものです。けれど、いまわたしたちがしている「知る」のなかにはぬくもりがありません。ただ情報として処理しているだけです。
そうなると、どんなにたくさんのニュースをテレビや新聞で見聞きしても、見知らぬ人の話はどこまでも他人事でしかありません。
「ほかの人の痛みは、その人の痛みであって、わたしにはまるで関係ない」
と思うことになれてしまえば、たとえば戦争も「ここ」にないかぎり、自分が解決に乗り出すべき問題として自覚されることさえなくなってしまいます。
想像する力が弱くなることが、
いちばんこわいことです。
知る力がおそまつになったとき、他人はどこまでも自分とは関係のない存在にしか見えなくなってしまいます。戦争を遠く離れたところから見ているときも、戦争の当事者になってしまったときも、自分のこと以外は理解しようとも知りたいとも思えなくなってしまいます。

p.165
でも、わたしたちをふくめておとなたちは、やられたらそれを倍にしてやり返すというくり返しを断ち切れなかったがために、この世界から戦争をなくせいないでいるのです。きみたちには、わたしたちとはちがう、もっと強い人間になってほしいのです。
争いの根っこにあるにくしみの感情。
それをコントロールできるのは自分だけです。

p.166
争いの根っこにあって、争いに火をつけているのは、おたがいが相手に対していだいている敵意やにくしみの感情です。それを洗い流せなければ、和解もないのです。
では、その感情をだれがコントロールできるでしょうか。答えはわかりますね、感情をいだいている当人たちだけです。仲裁者があいだに入って手を出せることは、せいぜいけんかの後始末にかかわることがらだけです。だから、仲裁する人間がいても、なかなか真の解決にまでいたらないのです。感情のコントロールはその当人が自分で何とかするよりほかありません。
もし、争っている当人たちが、
「自分はこんなに痛い思いをした。でも、相手も深い傷を負っていたんだ…」
と、はたと気づくことができれば、それが和解への第一歩になると、わたしは信じています。

にくい相手をゆるす。その勇気で、
争いを終わらせることができます。

p.169
きみのほうが力が強くても、味方が多くとも、まずきみのほうから相手をゆるしてほしいのです。それには、精神的な強さがなければなりません。

出版社からのコメント
社団法人日本図書館協会 社団法人全国学図書館協議会選定図書。平成23年度、東京書籍版『小学校六年 国語教科書』に文章が採択されました。
内容(「BOOK」データベースより)
いのちとは家族とは人間とは―若いきみたちに託したいこと。かつて十歳だったあなたにもぜひ読んでほしい。はじめての子ども向けメッセージ。