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恐山: 死者のいる場所 2014年13冊目

恐山: 死者のいる場所 ★★★☆☆


死とは何かと気になったので本書を手にとった。

オカルトものではない。
そして著者は禅僧でありながら、宗教色も強くない。
なぜなら現実主義だからだ。
教義にとらわれない著者の人を救う言葉選びはとてもすばらしかった!




p.74

恐山というのは、魂の行方を決める場所なんです。
死者への思いを預ける場所なのです。

p.111

つまり、霊魂や死者に対する激しい興味なり欲望の根本には、「自分はどこから来てどこに行くのかわからない」という抜きがたい不安があるわけです。この不安こそがまさに、人間の抱える欠落であり、生者に見える死の顔であり、「死者」へのやむにやまれぬ欲望なのです。

欠落の説明


p.112

決して埋めることのできない己の根源的な欠落が、「死者」を欲望する。その場所が必要なのです。そのために恐山があるのです。死というものが生者にとっては欠落であり、磁石の両極がひかれるように、その埋めがたい欠落を埋めようと、人ははるかここ恐山までやってくるのです。

p.131

生者は死者に自らの欠落から噴き上がるものを預ける、と述べました。その預けるという行為の背後から、死というものは這い上がってくるのです。

p.135

「ごめんなさい」と、相手が生きているうちに詫びることができるというのは、とても大事なことです。それができないまま相手が死んでしまうと、その意味が固定化されたまま、いつまでもわだかまりとして残ってしまいます。

p.138

死者の思い出というのは、それが懐かしさを伴うものだろうが、恨みを伴うものだろうが、死者に背負わせるべきものなのです。生者が背負うものではなく、死者に預かってもらうしかないのです。
恐山というところは、そのような死者の想い出を預かる場所なのです。
「恐山は巨大なロッカーである」とも言えるでしょう。

p.143

死後の世界や霊魂のことは、私にはわかりません。しかし、死者がその存在を消滅させないことは知っています。死者は彼を想う人の、その想いの中に厳然と存在します。

p.194

叫びとも悲鳴ともつかぬ声が、上から聞こえた。

詳しい地形は分からないが、状況的に下から聞こえるのでは?


p.200

無常が死者を欲望させる。「仕方の無さ」を自分に受け入れさせようとすること、それが自己の無常から吹き上がってくる死者へのどうしようもない想いの正体だろう。

内容紹介
人は死んだらどこへゆく――。「恐山の禅僧」が語る、霊場のすべて。 死者は実在する。懐かしいあの人、別れも言えぬまま旅立った友、かけがえのない父や母――。たとえ肉体は滅んでも、彼らはそこにいる。日本一有名な霊場は、生者が死者を想うという、人類普遍の感情によって支えられてきた。イタコの前で身も世もなく泣き崩れる人々、息子の死の理由を問い続ける父……。死者への想いを預かり、魂のゆくえを決める場所、それが恐山なのだ。無常を生きる人々へ、「恐山の禅僧」が弔いの意義を問う。
内容(「BOOK」データベースより)
死者は実在する。懐かしいあの人、別れも言えず旅立った友、かけがえのない父や母―。たとえ肉体は滅んでも、彼らはそこにいる。日本一有名な霊場は、生者が死者を想うという、人類普遍の感情によって支えられてきた。イタコの前で身も世もなく泣き崩れる母、息子の死の理由を問い続ける父…。恐山は、死者への想いを預かり、魂のゆくえを決める場所なのだ。無常を生きる人々へ、「恐山の禅僧」が弔いの意義を問う。
著者について
禅僧。青森県恐山菩提寺院代(住職代理)、福井県霊泉寺住職。1958年長野県生まれ。84年、出家得度。曹洞宗永平寺で約20年修行生活をおくり、05年より恐山へ。著書に『語る禅僧』『老師と少年』『「正法眼蔵」を読む』『人は死ぬから生きられる』(共著)など。
著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)
南/直哉
禅僧。青森県恐山菩提寺院代(住職代理)、福井県霊泉寺住職。1958(昭和33)年長野県生まれ。84年、出家得度。曹洞宗永平寺で約20年修行生活をおくり、05年より恐山へ(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)