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成功の実現

成功の実現 ★★★★★

今まで中村天風の本を三冊読んだが、首尾一貫、徹頭徹尾、「心を積極的にせよ」だ。
「君に成功を贈る」よりも更に踏み込んで、”我とは何か”と哲学的要素が増えている。
また、アメリカへ行ってからヨガの大哲学者カリアッパ先生との運命的な出会いも詳しく書かれており、それがまさしく事実は小説よりも奇なり!冒険小説よりも面白かった。
残念なのは、説法をそのまま収録しているのか、話が前後したり、同じ話が出たりと冗長な点が散見されるところだ。
それでもお勧め★5つ。


三冊読んだ中でお勧めは順は以下。最初は「君に成功を贈る」が読みやすくて良いだろう。
君に成功を贈る > 成功の実現 >>  運命を拓く

自分の他二冊の感想はこちら。

p.14 人生礼賛
どうすれば生命の生存の確保が出来るかというと、心と身体がうって一丸とされたものが生命である以上、心と身体の両方をです、自然法則絶対に背かせないようにすることです。自然法則に背かせないようにするには一体どうすればいいかというと、第一に「心」の態度を終始一貫いかなる場合があろうとも積極的であらしめることです。積極的であらしめるということは、尊く、強く、正しく、清く生きること何であります。およそこのことぐらい人生および生命に対して大事なことはないのであります。
それから「体」のほうは、常に訓練的に積極化するということを心がけなければいけません。つまり、秩序をおってだんだん慣れさせる。
以上が生命存在確保の大事な要諦なのです。

心を積極的にするというのが趣旨

p.22 人生礼賛
人間というものは、死ぬときは死ぬよ。何もなくとも死ぬときは死ぬんですから。それよりはもう少し気の利いたことを考えたらどうだろうと思うけど、どうも気の利いたことを考えられない。ことほどさように神経というものが過敏になっちまうと、哀れ惨憺たる状態になるらしいですなあ。

まさに病気の時は自分の不運、不幸を呪う。

p.32 真の積極
ただ単に心が消極的なために、人生の光が無くなるだけでも惨めなのに、いわんやまして心の態度というものの声に応じるように、それはそれはもう間髪を入れず肉体生命にその影響を及ぼすという、動かすことの出来ない恐るべき事実を考えてみますと、よりいっそう積極精神の重要性がはっきりと合点されやしませんか。

これは経験上合点がいく。

p.36 真の積極
自分にはこういう場合に心を強く持てないとか、理屈はそうかもしれないけれども俺には出来そうもないというような否定的観念や、あるいは消極的な考え方はどんな場合があっても絶対に持っちゃいけない。そうしたら価値のない観念を持つと、積極的の反対の気持ちが心のなかにできちまいますから、これは最も排斥すべき考え方なのであります。仮にも積極的精神をつくろうという尊い目的を持つ者としては、絶対に考えてはならないことです。

p.42 真の積極
事の如何を問わず、よしんば、本当に心配することを心配した場合でも、心配しなくても良いことを心配した場合でも、結果は同じなんです。すなわち、取り越し苦労をすればするほど、その心の消極的反映が即座に運命や健康のうえにまざまざと悪い結果となって現れるからであります。

結果は同じなら消極的になる利点はないわな。

p.45 真の積極
多くの人は、言葉と気分というものが直接関係があるという大事なことに、正しい自覚を持っていないようです。絶対に消極的な言葉は使わないこと。否定的な言葉は口から出さないこと。悲観的なことなんか、断然もう自分の言葉の中にはないんだと考えるくらいな厳格さを持っていないければ駄目なんですよ。

p.48 真の積極
極論すれば、病があろうが、運命が悪くなろうが、それを感謝と喜びにふりかえるのです。こう申し上げると、「なにかうれしいことやすてきなことでも与えられたら、感謝、喜びはかんじるなっていったって感じるけれども、いちばん人生で嫌な病や不運を与えられて、何が感謝だ」と考える人に一言申し上げたい。
そもそも病とか不運とかというものの原因を考えて下さい。何にも自分に落ち度が無くして、病や不運が来るはず無いのであります。

天には我々が使うような言葉がありませんから、事実を以てあなた方の自覚を求めるのであります。

お前の生き方には間違いがあるから、その間違いを自覚しなさい、といって病をくだされたんだ、こういう考え方が一番確かだと私は思う。

だが、病をくださったと考えることが出来たとしても、痛いものは痛い、苦しいものは苦しい。

p.71 悟入転生−天風自伝
つまり、心の態度が積極的ならば神経系統も積極的になるが、心の態度が消極的ならば神経系統の生活機能も消極的になっちまう。

p.82 悟入転生−天風自伝
ヨガの哲学の中にね、「身に病ありとしもいえど、心まで病ませるな。運命に非なるものありとしもいえど、心まで悩ますな」という教えがあるんですよ。

これ天風さんの言葉だと思っていた。ヨガの哲学なのか。

p.89 悟入転生−天風自伝
「心こそ心を迷わす心なり。心に心、心許すな」なんて歌を、いい歌だなあ、全くだよ、と感心していたばかばかしい昔あったもの。その時分にはね、我が心で我が心が悶えるんですから。
例えば、病の時病を気にすれば、どんどん病が悪くなるとも、良くならないことは千万承知してますよ。喀血ひとつだって、気にすれば必ず分量が多くなるし、脈ひとつだって、気にしたらば心悸亢進をたちどころに起こすということは知ってるんだから。知っててもだ、知っててもどうにも出来ないので困り抜いていますから、それは、「心こそ心まよわす心なり」という歌を、全くだよと思いますがなあ。

同感。天風さんも思ったんだ。

p.102 快淡明朗
人生は苦の娑婆だなんて言っているのは悟りを開けない奴が言ってる寝言ですよ。生きる正しい方法を知って生きたら、人生ぐらい愉快な、人生ぐらい恵まれた、人生ぐらいありがたいものはないんですもの。
結局、心が人生を感じる感じ方でそのまま極楽にもなり、地獄にもなるわけだ。

p.127 快淡明朗
「お前は、きょうはどうも頭が痛いとか、きょうは熱がありますとか言ってる言葉の後に、たとえ言葉に出なくても心の中で思うだろう。あーあ愉快だと思わない、実に不愉快で何ともいえない嫌な気持ちだ、と。いわんやまして、普段よりも違った良くない状態が体に現れてくりゃ、痛いとかかゆいといいながら、これがもとで死にゃしないかとか、もっとわるくなるんじゃないかしらんというふうに、現実よりもさらに上を越した神経を使いやしないか。それがいけないんだ。寒いとか、暑いとか、痛いとか、かゆいとか言うことはかまわない。それは、現実に対する表現だからだ。しかし、それに対して、お前はしょっちゅう付け加えなくてもいい、いろんな事を付け加えているじゃないか」
「いやしかし、普通の人間みんなそうでしょう」
「略
まだ、お前は普通の人間だとおもってんのか。普通の人間はお前のように毎日毎日、真理ととっくんで貴重な時間を過ごしちゃい無い。毎日毎日くだらない人事世事におうしょうして、やたらとその言葉を汚して、実に自分並びに他人をも始終そこなうような言葉ばかりを使ってんのだ。それは普通の凡人の言うことだ。真理を探究している人間がそういう考え方をもつことは非常に恥ずかしいことで、結局、極端に自己を侮辱していることになるじゃないか。略」

前出のヨガの哲学だな。

p.131 快淡明朗
何か言っておいて、それはどういうつもりで言ったんだと聞かれたときに、言った人間が言うつもりがなく言ったんだという弁解は成り立たないだろう。
真剣に考えろ。人間の日々便利に使っている言葉ほど、実在意識の態度を決定する直接的な強烈な感化力を持っているものはないんだぜ。感化力というより、むしろ暗示力と言おう。だから、それを完全に応用して生きてみろ。それだけでも、どれだけ健康や運命のうえに大きな良い結果をもたらすかわからない。

p.132 快淡明朗
たとえば、体が悪いときなんかに、ここが辛いとか、ここが痛いとか、ここが悩ましいとか言うのはかまいませんよ。それは感じだから。それを逆に言ったら嘘を言っていることになるもんね。

痛いのは痛いのでいいよ。けど、その後がいけないんだ、あんた方は。「痛くてしょうがねえ」とか、「ああ、死にそうだ」とか、「ああ、これでもうだめだろう」、それがいけないんだ。

でも、どうせ言うなら後にもっと積極的なことを1tらいいじゃない。
「暑いなあ、よけい元気が出るな」と、こう言えばいいんだ。
「ものも言いようで角が立つ」「丸い卵も切りようじゃ四角」と言うじゃない。ところが、あなた方は、「物言えば唇寒し秋の風」で、もう言っているそばから自分を傷つけ、人を傷つけている。

カリアッパ先生に言われた通りのことを言ってる。

p.133 快淡明朗
人生に生きる場合、常にあとうかぎり善良な言葉、勇気ある言葉、お互いの気持ちを傷つけない言葉、お互いに喜びをよく与える言葉を実際に使う習慣をつくりなさい。

p.156 より強く、逞しく
血液本来の姿というのは、弱アルカリ性でなければいけない。弱アルカリ性の血液であるかぎりは、黴菌がただで入ったからって、けっしてその人間は病には冒されないんですよ。

気の弱い奴はね、黴菌でない普通のバクテリアに冒されても患うんだ。それはなぜかというと、血液が酸性化しちまうから。学問的に言うと、アジドージズ(酸毒症)という血液になっちまう。そうなると何の原因もなくても風邪ひいたり目が回ったり、頭が重くなったり食欲が進まなくなったり、夜が寝られなくなったり、もうへんてこりんな体になっちまうんですよ。

さすが天風。医学者だ。パニック障害鬱病にも当てはまる。

p.161 より強く、逞しく
だからどんなに食療法しても精神的な方面が安定していなければ、いわゆる肝臓外の糖原質の分解という自家現象で糖尿病は治らないんです。ましてや、インシュリンを注射するなんていうのは、金取りながら患者を毒殺しているのと同じなんだ。
時計の機械が止まったからって、針の先で歯車を押しているのと同じ事。手を離せば直ぐ止まっちまうじゃないか。とにかく、神経反射の調節をしないと、感情や感覚からくる心の受ける再反射作用によって、えらい損害が生命に招き寄せられちまうんです。

甘いものが好きな糖尿病の患者に我慢させられていた甘い菓子食わせて、あくる日検尿したら糖が出なかった話だけど本当かな。

p.177 より強く、逞しく
天風式クンバハカ法
感覚なり感情なりの衝動、ショックを受けたら、急いで体の三箇所を特別なもち方をするんです。
体の三箇所とはどこだというと、肛門とおなかと肩です。
腹が立つこと、心配なこと、恐ろしいこと、何かにつけて感情、感覚の刺激衝動を心に感じたら、すぐ肛門を締めちまう。そして、おなかに力を込めると同時に、肩を落としちまうんだ。この三箇所がそうした状態にされたときに初めて感情や感覚の刺激衝動が、心には感じても神経系統に影響を与えないという、いわゆる影響を減ずる効果がある。

p.181 より強く、逞しく
そこで、習慣を付けるのに一番いい一石二鳥の方法がある。今言った体のもち方を応用しながら、折あるごとに時あるごとに、日に何千回でも良いから深呼吸をすることを稽古しなさい。そうすると、ひとりでにこの良き習慣が、いざというときに特別に意識を用いなくても、肛門が閉まって、肩が落ちて、おなかに力が入る。
息を吸うときよりも、出すときが肝心なのよ、呼吸っていうのは。

わー。パニック障害本に良く出てくるフレーズだ。
息を吸うよりも吐く方が肝心。息を吐く方は副交感神経を優位にしてリラックスたらしめる。

p.222 もはや何ものも恐れず
だから、今まで自分だと思っていた肉体は、自分ではありゃしない。自分という気体が生きるための必要な仕事を行う道具なんだ。
心またしかり

自分とは何か?天風さんは気体という単語を使っているが、霊魂=スピリッツのこと。

p.224 もはや何ものも恐れず
直接的に自分が患っているんじゃない。おのれの道具がそうなっているんだから、道具を心配しないで、道具を治す方に一生懸命にかかればいいんだ、と。心配が無くなったら、ひとりでにぐんぐん治る病は治ってくるにきまってるという心理によって治っちゃったわけだ。

p.244 もはや何ものも恐れず
現在、頭の痛い人もいるだろう。考えてごらん。もう頭がいたくてしょうがいない、しょうがないと思っていると、いつまでたっても治りゃしない。「本体の生きる道具である体の頭の方が痛いのを心に報告したから、心が気に感じせしめているんだ」と思うと、今度は心があんまり報告しなくなるよ。治るときがくれば治ると思うから。もっとおおらかな、自分自身を常にもう一人の自分で守らせていくような考え方で生きなさい。これは尊いんだよ。

p.273 もはや何ものも恐れず
「我は霊魂という一気体なり」というこの自覚で教わった心身統一法を行うと、なるほど、心も身体も道具か、その道具をまとめて1つにして使えというのが心身統一の根本原則だな、ということが悟れると思う。

p.285 新天地を拓く
夢中で芝居なんか見てる人間は、たとえば、蚊に刺されたって知らずに見てますわ。木頭が、チョーンと鳴って幕がスーッと降りて、もう芝居が無くなると、ああ、かゆい…。ここいらに微妙な人間の心の働きがあることを考えなきゃ駄目だよ。
結局、心が積極的だと、肉体のいろいろの変化に心が引きずられないんですよ。引きずられないようになると、ハハア、ほうんとうの自分の体じゃないわということがわかってくるんですよ。即座には分からないかも知れないけれども。

例を出されると分かりやすい。

p.290 新天地を拓く
あなた方が現在、何か人生に苦労を感ずるものをもっているとしたら、それをただ苦しい、情けないと思うよりも、子細にそれを検討なさい。心を己の生命が生きるための道具として使わないで、反対に心に使われているがための結果なんですよ。どんな心配でも。

もっとはっきり言うと、自分というものを知らず知らず心の奴隷にしているために、年中煩悶や苦悩の虜になっているんですよ。

p.293 新天地を拓く
「自分というものは肉体や心の奴隷でもなく、従者でもない。したがって、肉体や心に使われるべきでない。どんな場合でも、心を立派に使いこなしていかなければいけない」という悟りを拓かなければ駄目だよ。それがほんとうの完全な人間なんだ。

p.356 大いなる我が生命の力
消極的な心になると、造物主のだいじな誠と愛と調和の気持ちからはなれちまうんだ。自分は離れようと思わなくても。つまり、結び目をほぐしちまうことになるんだから。
ところが、ひとたび自分の心を明るく、朗らかに、生き生きとし、勇ましく、どんな場合があろうとも心の輝きを曇らせずに生きようとすると、造物主の心と同様の心持ちになる準備をしたことになる。つまり、結び目を堅固に保つ用意をしたことになる。その用意が完全になればなるほど、造物主の無限の力が自己の生命の中で無条件に自然と同化力を増大してくるんだよ。そうした気持ちが要するに推進力になるんだ。心のもち方を積極的にしたということが、引っ張る力に押す力が加わるのと同じ事になるんだ。

p.356 大いなる我が生命の力
自分の心を積極的にする方法を教わったじゃないか。「観念要素の更改法」、「積極観念の養成法」、「神経反射の調節法」、「精神の使用法」というのを教わったんだもん。

p.378 成功の実現
心の中で思ったり考えたりすることを、心のスクリーンに想像力を応用して描くと、それが期せずして強固な信念となる。信念となると、それがいつかは具体化するのが必然の神秘なんだ、ということが悟れたわけだ。
これなんだよ。「思考は人生をつくる」という言葉の意味は。心はその人をつくりもし、また壊しもするという恐ろしいものなんだ。人生はまこと心ひとつのおきどころ。

これは良くあるビジネス本に出てくる成功のイメージを持つことと同じだ。

出版社/著者からの内容紹介
東郷平八郎原敬松下幸之助など時代のリーダーたちが心服したその類まれな成功哲学を分かりやすく面白く伝え、世に天風ブームを巻き起こした「成功開眼の書」